愛と光の世界へ・・・

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『沈黙』、そして、私が考えるイエス様

皆様、当サイトをご訪問下さり、ご縁に感謝いたします。

良き気づきがありますように・・・。

ご質問を頂いたので、宗教とスピリチュアリティの違いについて書いてみたいと思います。

旧ブログに書いた記事と同じ内容の部分もありますが、今の私で再度書いてみたいと思います。

まずは、『沈黙』というキリシタン迫害の本からです。


この本は、ある方に進められて読みました。日本にキリスト教を伝えようとした宣教師達が、宗教弾圧にあい、殉教して行くお話でした。この関西でも車を走らせていると、キリシタン殉教の碑を目にすることがありまして、本当にいろんなところ、日本全国で起きた事なんだな~と思い、心が痛くなりました・・・。

ではまず、私の過去世のお話をします。

島原の乱をご存知ですか?1600年代に九州の島原でキリシタンによる一揆が起きました。

美輪明宏さんは、天草四郎の生まれ変わりだと言ってますね。

小学校の教科書に載っていた天草四郎さんは、ほっそりとした美男子でしたが、その絵よりも私の知っている天草四郎さんは、三輪家にある天草四郎の肖像画の方が、近いです。

島原の乱があった時代、私は幕府側の密偵でした。病で行き倒れていたのですが、それを助けてくれたのが、今世の祖母でした。私、女性だったので、まさか敵の人間だとは思わなかったのでしょう。

コトコトいう食事作りの音で目を覚ますと、台所の横にある座敷に寝かされていました。

祖母は、おにぎりを沢山くれるのです。皆の分も乏しいのに、私にこんなにしてくれるなんて・・・と申し訳なく思っていたことが伝わってきました。なにせ、修行の人生でしょ?だから、親子の縁も薄く、人目に触れることさえままならない、だから、そのもてなしが有難かったのです。

そして、幾日か世話になりながら思いました。

こんな善良な人達を貶めるのか?キリシタンがそんなに悪いのか?と。信者ならではの愛に触れ、心が揺らいで行きました。

そして、ある時、役人がやって来ると言うビジョンを受け取りました。私、どうやら時々ビジョンが見える人だったようです。修行のお陰で、直感力が研ぎ澄まされていたのでしょうね。

いついつ踏み絵が行われると分かり、彼らを失いたくなくて、それを伝えようとしたのですが、神のもとへ行く事に躊躇が無い彼ら。女子供含め、大切な人達は絵を踏むことなく、この世を去りました・・・。

私は、唯一の家族を失い、悔しさに打ちのめされていました・・・。

その時、私は彼らに、

「なぜ生きる事を選ばない?絵なんか踏んだっていい、生きのびて神を信仰すればいいじゃないか! 

 生きていてこそできることがあるじゃないか!!」

と嘆願したようです。

思いのほとんどは、自分の寂しさ故だったかもしれませんが・・・。

この時に、私が出逢った子供の内の二人は、今世でも出会っていますが、二人とも心の病気を抱えています。祖母もまた不安症な人でした。

今世の祖母は、戦争中、仏壇に熱心に手を合わせ、助けて下さいと祈っていたそうですが、40歳くらいで、改宗し、クリスチャンになったらしい。

祖父の体が弱く、それも不安だったのでしょうね。

そりゃもう熱心な信者さんで、祖父も巻き込み、それ以来我が実家は、キリスト教徒となりました。ただ、祖母の熱心さはかえって反感を買い、子供達は信者にはなりませんでした。実家も祖母が亡くなってからは臨済宗に戻りました。

祖母が亡くなってから彼女の聖書を開いてみましたら、我が子や私達孫の事を案じ、「救って下さい」と書き込まれていました。

「私は神を信じます。恐れなどありません。アーメン」

そんな言葉がたくさん書いてありました。

しかしながら、死が近づくにつれ、祖母は、「死にたくない」と言うようになって行きました。

生きる選択をしなかった過去世、もっと生きたいと願った今世。

数えの100歳だったので、大往生でしたよ。

私も死にたくない系の人ですが、祖母の生き方を見ていて、長生きしてもあの状態では意味がない。苦しいだけだな・・・と思いました。

そして、皆が口をそろえて言いました。

「教会にたくさん寄付して熱心に信仰しても、結局はなんにもならなかった・・・」と。

それはそれで、キリスト教は、スピリチュアル精神とは少し違うので、正しい教訓だったのかもしれません・・・。

私は、過去世のどの時代も、どこかアウトローなところがあり、確信がない限り信じないタイプだったようです。その私があまり聖書を読みたいと思わないのです。使徒でさえ、正しくイエスの教えを理解していたのかも分からないと思っています。

黙示録の有名な話にしても、宗教的には、地球が滅亡するようなことを広めましたが、もし天から救いの光が降りて来ると解釈したらどうでしょうか?恐れをもってイエスの言葉を読み解くのと、導きとして平和へのガイダンスを下さったと読み解くのでは、全く違ってきます。

イエスがこの世を去ってから、聖書が出来上がって行く過程で、どんな人物が参加して書いたのか?それなりの方であったとは思いますが、内容を信じるとか信じないの討論も虚しく感じるのです。

イエス様直筆なら本物。

だけど、他人が書いたのなら?

広めようとしていたとしたら?

真実は過大評価され、上手く伝わらなくなるのがこの世です。

私なら、イエスの言葉として書かれている部分に意識を集中し、

「イエス様、この意味を知りたいのです。」と伝え、意味が降りて来るのを待ちます。

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イエス様に関する面白いエピソードがあります。もう何度かブログに書いたお話ですが、

とある宗教勧誘のおばさま、Fさんがピンポンとやってきて言うのです。

「神を信じますか?」と。だから、「はい」と答えたら、「え?」と言うので、おかしな反応だな~と笑えました。普通は「いいえ」と答えるからでしょうね。

しばらく沈黙があり、「もうすぐ地球が滅亡すると言われていますが、その時はどこにいたいですか?」と言うので、「地球は滅亡しませんよ」と言うと「え??しないんですか???」と言うから、「しませんよ。だって、私の未来が見えているのでね」と言いましたら、「未来が見えるんですか???」とビックリしていました(笑)

別の日は、「聖書を読んだことがありますか?」と聞かれたので、「少しだけあります。祖母がクリスチャンだったので」と言いました。

そしたら「もし今イエス様と話が出来たらどんなにいいでしょうね」と言うので、「話せますよ」って言ったら、「話せるんですか!!!!」とまたまたビックリしていましたが、だからと言ってそれ以上突っ込まれるわけでもなく、マニュアル的に聞くことをこなし、聞き終わると「ありがとうございました」と去って行かれました。

これで信仰していると言えるのだろうかと残念で、Fさんがこれからもこうやって布教活動をされて行くであろうことを気の毒に思いました。

その方との会話の中で、ゼウスとかサタンと言う言葉が出て来たのですが、私の中では

ゼウス=神、これがよく分からない。言い回しが、キリシタンと同じだなと思いました。

キリスト教にも色々派があるし、私はほんとに、御言葉だけ聞きに行っていた信者だったので、全く勉強してなくて照らし合わせることが出来ないのですが、祖母が良く言っていたのが、

「日本キリスト教会でないとダメだ」と言う言葉でした。カトリックでもないんだって。

そして、偶像崇拝(物質を媒体とした宗教。仏像など)を嫌っていました。なので、過去世とは違うキリスト教に出会っているのでしょう。

過去世の祖母は、キリシタン。

だけど、今世の祖母からゼウスと言う名を聞いたことがありません。

悪魔とは言ってましたが、サタンも聞いたことがありません。

祖母に取っての信仰は、この世を生きる支えとして必要だった。怖がりで、慎重だった祖母、63歳で他界した祖父。そこから100歳まで生きる支えだったのでしょう。

なにせ、私以外は、イエス様を受け入れてなかったので、祖母の思いに共感してくれる人は教会にしかいなかったのです。どんなに良いものだと信じていても、家族がそう思わないので、祖母は苦悩したと思います。大事な家族も救われてほしかったのです。

過去世からずっとイエス様を大切にして来た魂なのでしょう。

このブログは、数日かけて書いていますが、その期間の、6月2日が祖母の命日。

生きる為に信じていた。祖母の信仰はそんな印象でした。

今これを書いている事は、偶然ではないのでしょうね。喜んでくれているかな?

教会に来ている信者さんは皆さん優しくて穏やかでしたが、ある事件があり、信者さんが牧師さんを許さなかった時、子供の私が思いました。

「この人たちは、クリスチャンではない」と。神なら許すだろうと思ったのです。

人間の物欲や執着を見た瞬間でした。子供ながらにショックでしたね。私もイエス様の世界が存在することを望んでいたのでしょう。

私の知っているイエス様の世界は、慈悲と愛に溢れ、罪が許される世界。

それとはかけ離れたものでした・・・。

田舎の小さな教会です。他にはもっと徳の高い牧師様もいると思いますし、まだまだ光とはほど遠いところを生きておられる信者さんの為の拠り所になっておられるのだと思う。

だけど、私が見つけたスピリチュアルな世界のイエス様は、私が創造していた通りの方で、そのエネルギーに触れていると、安心感や自分が清められていくような、ずっとそこに居たい気持ちにしてくれます。そんな世界は、宗教にはありませんでした。あれは、あくまでも人が作り出した世界だからね。

私が小学校6年まで通っていた日曜学校の壁には、イエス様の絵がありました。

賛美歌を歌いながらその絵に目をやると、いつも微笑んで私の事を見てくれるのです。その絵は、まるでそこに生命があるように生き生きとしていて、私はいつも怖いと思っていました。

イエス様はなぜ私を見ているのだろう??ってね。

ライタリアン・レイの4番目のアチューンメントは、イエス様のエネルギーと繋がります。

テキストでは、イエス様の宇宙名、サナンダと書かれてあります。

私は、どうしてもそこに繋がりたいと思いました。エンジェルリンクの天使も気になったけれど、まずはイエス様の元へ行きたい!と思ったのです。なんていうか、やっと一つになれる・・・そんな喜びを感じたかったのです。

繋がれた時の何とも言えない安堵感。やっと来れた♡・・・そんな感じでした。

その数日後だったか、夜PCでブログを書いていたら、左の方から私のハートの辺りに何かのエネルギー体が入って来たのを感じました。光とかではなく、人の形をしていました。なんとなく感じる姿は、ロン毛で白装束・・・。「イエス様が来て下さった?」と思ったのですが、真実は定かではありません。信じたいけどあまりにも素晴らしすぎてね・・・。

ライタリアンレイの流れを思えば、どのマスターにおいても起こり得ることなので、不思議でもなければ特別でもない。

エネルギーは一つだけではありませんから、万人に起きてもおかしくないのです。

私には、そのような感覚で一つになれたことを感じされてくれたのだと思っています。

余談ですが、小学校の教科書に、「踏み絵」の事が出ていました。私はそれを見た時、

「自分なら踏めるかな?」と考えてみました。

目の前に踏み絵が置かれたと仮定して、踏んでみることにしました。恐れがないわけではないけれど、「踏めた」のです。この行為も、遠い過去世と繋がっていたわけです。


私は、自分の中のクリスチャンの部分は、キリスト教ではなく、イエス様と直結した位置にあると思っています。イエス様を信じているのです。

宗教的な信じるとは違って、正しい場所、懐かしい居場所、そんなイメージです。

どう表現したらよいでしょうね、とても懐が広く、宇宙の様に壮大な「大丈夫」感がある方ですよ。

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話を『沈黙』に戻しますが、宗教の形としては、マリア像とか十字架を持ち、それを媒体として救いを求めているような感じなのですが、これをやっていると、その内、その物質が神の様にすり替わってしまう事もあると思うのです。イエス様が踏み絵のような「ただの物」を大切にしなさいなどとは言わない。「命を大切にしなさい」と言うでしょう。

そもそも宗教の中では、真実は語られていなかった・・・と思わさるを得ません。

宣教師達が、神に救われることはありませんでしたよね?私の今の感覚では、天使に願えば守られるはずだと思うので、あの出来事は奇妙なのですが、彼らの寿命がそこだったとしたら仕方のない死だったと思うけれど、福音の方向性が間違っていたからだとしたかどうでしょう?

ゼウスに祈ったのです。十字架を捨てなさい。マリア像を手放しなさい。生きなさい。

そう伝達しなかったことが罪だったとしたら?

物質である十字架やマリア像ではなく、生きる事を選択した人々が救われましたよね?

それが、全ての答えだと思います。

宗教の中では、イエス様の本当の意志は伝えられなかったと言う事だと私は思います。

このブログを書くことになったのは、信仰心と向き合ってみましたが、スピリチュアルを伝えることが難しいというお話がきっかけでした。

頭に叩き込まれた聖書の中の精神世界。

身体や心で感じたスピリチュアルな精神世界。

この世に存在する確たるもの(聖書)の方が勢いがあり、反論できなくなるようです。

私はよく、熱心な仏教徒さんに宗教とスピリチュアルな世界は別だと話します。

スピリチュアルの良さを理解してもらうためにした質問は、

「お仏壇に手を合わせ、お願いをして、それがあなたを助けてくれたことがありますか?」でした。

その方は、首を横に振って「ない」と答えましたよ。

毎日、ご先祖様を大切に扱っているけれど、その恩恵がないのは、自分たちの行いが悪いからだと思っているようでした。

私、スピリチュアルな世界に対しては、感謝しきれないくらい助けてもらったので、

「いっぱいあります!」と答えられます。

ここが、宗教とスピリチュアルの大きな違いだと思います。


スピリチュアルな世界は、目に見えないかもしれないけれど、現実的な結果を得られるのです。


その方は、それ以降、ご先祖様にお願い事をするのを辞めました。

今は、日常あったことを報告するようにしているそうです。

私は、主人の実家の宗教をこれからも継いで行きます。しかしそれは、文化としてです。

時には故人に話しかけ、今日も頑張ったよとか、もう成仏できそう?とか特殊なお付き合いをしていきます^^

そこに居るのは、懐かしい方々だから、お仏壇の前に行けば話しかけます。

でも救い主ではありません。

どちらかと言うと、自分たちが出来なかったことを私達にしてほしいと思っている方々なのです。


私達には、死して思い出す、すっかり忘れていた真実があるのです。


その「できなかった事」とは、霊的覚醒を遂げる事なのです。

ある本から、イエス様が伝えたかったのもこの事なのだなと私は思いました。

*生きている内に覚醒すれば、死後復活できる。

イエス様のような極端な能力には及ばないまでも、エイス様のように生きれば復活できるのです。

復活とは、故郷(生まれる前にいた場所)に帰る事を指しています。

イエス様はエゴのない叡智が覚醒した生き方を伝えたかったのでしょう。

覚醒できないで亡くなると、死後に「しまった!」と後悔します。が、精神世界を知った上で亡くなったら、そこからどうすればよいかを知っていますし、生きている間に出来た霊的貢献が後悔を減らしてくれます。

覚醒に必要な、叡智を取り戻す方法を、聖書は教えてくれないのです。

イエス様を尊びすぎて、別世界に祭り上げるから、かえって遠いお方になってしまったのでしょうね。

教えを頭にいくら叩き込んでも、イエス様のような生き方をしようと思わなければ意味がないのです。

レイキを使う方は、一歩イエス様に近づけた。と言う事ですよね^^

皆さん、もっと遠慮なくそばに行けばいいのに。そのほうが、イエス様が喜びます。

イエス様ってそういう方でしょ?

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これが、私の見て来た宗教とスピリチュアルな世界です。

島原の乱、その他にもケルトの時代とか、ユダヤ教とか、元祖キリスト教(とてもスピ度の高いものだったそうです)を信仰していた時代もありました。

そのせいか、聖書は、まだまだ新しい書物なので、もっと古い時代の叡智が聖書を受け付けないのかもしれませんね。

今、キリスト意識の項を読んでいるのですが・・・、難しい・・・。

なので、まだ書かないでおきます。

そして、イエス様の復活については、娘にこう話しました。

人は、まず復活(生まれる事)を経験し、そこから死に向かう。そして、イエス様は、まず死を迎え、そこから復活に向かった。と言う事だそうだ。この意味は、高次元からしたら人になる事が死を意味し。イエス様は、死によってもとの光の世界に帰ったので、復活した!と言う事らしい。と。

そして、イエス様がおっしゃってます(今、降りてきた言葉)。


死後逝く世界こそ、本当のあなた方がいた世界。生きている内に、そこから来て、そこに帰ることを悟りなさい。さすれば、あなた方も復活出来るであろう。


この世に生まれる事や、身体を捨ててあの世に帰る事に関しては、天使がビジョンをくれました。

このカードは『埋葬』と言う意味です。

私達がこの世に体をもって生まれて来ることを表しています。ということで、イエス様が死後復活したように、あちらの世界から見たら、この世の方が埋葬(魂が体に宿るという意味)された世界だと言う事です。

このカードに書かれている意味は、創造主の意識がこの世に顕現されることを表しています。

「I AM」とか「ワンネス」と言われている世界を表するということなのです。

とにかく、生きている内が勝負です!

少しでもイエス様の近くなりましょう!


私のイエス様感は、こんな感じです。ここに書いたことをお読みいただき、心がスッキリしたなら、これが真実だと思います。宗教とスピリチュアルの間で葛藤されている方、悩まずにどちらも経験してみて下さい。私達は自由なのです。宗教がその自由を奪ってはいけません。スピリチュアルを学ぶことで、宗教と上手に付き合って行って下さい。どちらかを捨てなさいと言う事ではないからね。

また、自由と言う意味では、まわりに理解を求める必要もありません。あなたが感謝の気持ちを持てる方に趣を置いていればよいと思います。現世では、宗教に関わらずに生きるのは難しいからね。

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